『昔話の深層』
河合隼雄
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波木井の御影(身延山久遠寺宝物館蔵)
1222年(貞応元年)2月16日、現在の千葉県鴨川市で生まれた日蓮聖人は、12歳で親元を離れて近隣で一番大きなお寺だった清澄寺に勉学のために入りました。16歳の時、正式に僧侶になりますが、その出家の目的は明確で、現在の仏教界に対する疑問解決のためでした。
その疑問とは…
1つ目に「日本はこれだけ仏教が盛んなのに、なぜ世の中はこうも戦いばかり起こるのだろうか?」
鎌倉幕府が成立したのが、聖人が生まれる30年ほど前、平家から源氏に、源氏から北条氏にと時代は変わっていきます。
生まれた前年には承久の乱も起こっていて、戦争ばかりの世の中でした。
2つ目は「お釈迦様の教えは一つであるはずなのに、なぜこんなにも多くの宗派があるのだろうか?」
多くの宗派があって仏教は盛んなように見えても、世の中は全然良くならない。苦しんでいる人が大勢いる。
仏教は社会に役に立っているのだろうか?お釈迦様が本当に伝えたかったことは一体なんなのだろう?
お寺での修行のなか、仏教に触れるほどに、この2つの疑問は大きくなっていきます。
そのような疑問解決のため、17歳から32歳までひたすら勉学に励み、日本各地の寺院・僧侶を訪ね歩き、数多くの経典を読み解きました。そのなかでも当時の仏教総合大学であった比叡山においては11年間に渉りすべての宗派や経典を徹底的に勉強し、法華経こそお釈迦様の集大成であり、法華経によって人々の救済が可能だと確信するのです。
立教開宗の図(妙福寺蔵)
それにしても法華経にこそ救いがある!こう言われますと、とても突拍子もないことを言っているように聞こえるかもしれません。
しかしすべての経典をひっくり返して勉強した日蓮聖人にとっては至極当たり前のことであったのです。
お釈迦様の説いた教えを、教えの説かれた順に一つ一つ読み解いていくと、仏教の全体像が見えてきます。
仏教の構成図が理解出来れば、何が中心かも明瞭に見えてくる。日蓮聖人が大切にしたのは、このバランス感覚なのです。
ただひたすら教えに沿って読み解いていった結果、中心にあったのが法華経だったというわけです。
そして1253年(建長5年)4月28日、聖人が32歳の時、初めて「南無妙法蓮華経」と唱え「数多くの教えのなかで、お釈迦様が本当に伝えたかったことは『妙法蓮華経』(法華経)に書かれている。
お釈迦様の真実の教えを伝え広め、この世界を仏の世界にしよう」と誓いました。
この日から入滅する61歳まで、お釈迦様の本当の教えを、一人でも多くの人に伝えるために、教えを広め続けるのでした。
日蓮聖人が入滅してから720年以上を経た現在、日蓮聖人の正しい教えを守り広めている日蓮宗は、全国に5200の寺院、400万人の信徒を擁しています。