『昔話の深層』
河合隼雄
妙福寺トップページ > 妙福寺の生い立ち > 縁起とあかふん君について
妙福寺の歴史は鎌倉時代までさかのぼります。
1253年(建長5年)4月28日、日蓮聖人は現在の千葉県鴨川市にある清澄山で、仏教の真実の教えを広める決意をしたあと、両親に別れを告げ、当時幕府の置かれていた鎌倉に向かいました。その途中、富浦の岡本浦で船出しようとしたところ、突然の嵐により足止めを余儀なくされます。
そこで聖人は近くの山に登り、海上安全と心願成就の祈祷を一心に行うと、不思議なことに嵐が治まってしましました。
その光景を目の当たりしたこの土地の豪族、泉沢権頭太郎(いずみさわごんのかみたろう)は、その経力に感銘を受け、自宅に日蓮聖人を招いて3日間、母親と2人の弟と共に給仕をし、直接教えを受けたと伝わっています。別れにあたり聖人は、お世話になった母親の願いを受け入れて「妙福」の二字を法号として授けました。
時は経ち1279年(弘安2年)、権頭太郎が身延山に隠居していた日蓮聖人を訪ねます。聖人は権頭太郎に給仕を受けたお礼として、衣を洗ったときに裸で読経した自分の姿を弟子に彫刻させ、その裸体の像とお題目の掛け軸を添えて授けました。
権頭太郎は帰郷したあと、その像と掛け軸を安置するためお堂を建立し、聖人の弟子であった日頂上人の弟子松本公日念上人を初代住職として迎えます。そしてお寺の名前を、母親が授かった「妙福」を頂き「成就山妙福寺」として現在に至ります
現在の妙福寺には住職と共に門前の小僧が修行しています。彼は日蓮聖人の熱いハートに憧れ、聖人の様な人になりたいと日夜努力を重ねています。
妙福寺のお祖師様(日蓮聖人像)は「生御影(いきみえい)のお祖師様」と呼ばれており、衣を召していない時は下帯姿です。熱烈なファンの彼は、どうしても真似したかったらしく、いつも「下帯姿」です。
最初は白だった下帯も、住職が幼い彼の発育増進と幸福を願い、赤く染めてくれたので、私たちは親しみを込めて「あかふん君」と呼ぶことにしました。
皆さまもどこかで会ったら「あかふん君」と声をかけてあげて下さい。
まだまだ仏教を学び始めたばかりなので、難しいことは分からないと思いますが、この妙福寺で一生懸命勉学に励んで参りますので、寺族共々よろしくお願いいたします。