「いのちの実感」
いのちが尊いことは百も承知。しかし、それが心にドスンと落ち実感として響いていますか?
理解と実感は異なります。実感するのは身近で命の危険に直面した時ではないでしょうか。
「私たちは盤石の大地に立っている」と思うのは錯覚です。薄氷の上に存在すると知った時、それは何ものにも代え難い財と気付くのです。
『事理供養御書』
ある檀越から白米が送られたことへの礼状です。本書の末尾に「凡夫なれば寒も忍びたく熱をもふせぎがたし。食ともし」と述べておられます。
聖人が身延に入って3年目。雪深く人が訪れることも少なく、ご自身のみならず弟子などを養う食物にも事欠くありさま。そこへ届けられた白米や芋の供養。いのちを繋ぐことができたことを感謝されています。
数多のご法難に加え身延入山後も常に死との隣合わせだったからこそ、いのちの尊さを常に実感されていたのでしょう。
法華経こそがそのいのちを生かす根源であると述べられているのです。
建治2年 聖寿55歳
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