『昔話の深層』
河合隼雄
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2012/01/01
昨年10月27日に、待望の長男を授かりました。名前は空太(くうた)です。
色々悩みましたが、生まれてきた彼の顔を見てたら「空太」がいい!と決意して決めた名前です。色々な方に名前の由来を聞かれるので、なぜ「空太」にしたのか?をまとめてみました。
時間があったら読んでやって下さい。
2500年前、35才の時にさとりに至ったブッダが、数日間にわたり初めての説法をためらった理由、それは「言葉と体験」だった。
自らが体験した「さとり」という境地。これを社会的な約束事である「言葉」に置き換えた時に、予期せぬ誤解が生じるのではないか?そもそも理解してもらえないかもしれない。
そう考えたブッダは、しばらく法を説かないでいた。
しかし、ブッダはこう考える。「自分の体験そのものを伝える事は出来ないが、
言葉を使い、そこへ歩ませる事は出来るだろう。」
こうしてブッダは初めての説法を行う。
この逸話【梵天勧請(ぼんてんかんじょう)】には大変重要な意味が込められている。
“言葉は真理ではない、真理は体験の中にある”
言葉は大切な方便であるが、言葉そのものは真理でない。方便に導かれ歩んだ先に体験があり、その体験の中に真理がある。
しかし後に「ブッダの残した言葉」そのものに執着をもつ者達が出現する。
ブッダの言葉は真理に向かう為の大切な道しるべであるが、その言葉の解釈に終始し、歩みを止める人々。
その者達を一刀両断にしたのが「空」という思想だ。
「言葉に捉われるな、目標を再確認しろ。」
世の中には情報が溢れかえっている。伝達手段が進化し、情報の洪水に溺れそうになる。
その様な現代で言葉がどのような意味を持つのか?何を伝えようとしているのかを見誤ると、言葉そのものが本質であると勘違いをし、目標が見えなくなる。
彼には、言葉の先に見える“真理”に向かって弛まず歩みを進めて欲しい。
これが名前に込めた思いです。
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