『昔話の深層』
河合隼雄
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2011/01/20
岩波書店発行の「図書」という冊子に、野の花診療所の医師、徳永進氏が書いた『反対言葉の群生地』というコラムがあり、医療現場での体験が綴られていました。
36年前、研修医であった徳永氏は、初めて受け持った肝がんの患者さんに、終始「がんじゃありませんから頑張りましょう」を繰り返した。あげく「またそんな、ええ加減なことを!」と叱られた。
吐血後のショックの時には、「私は死にます。死の淵まで行ってきました」と言われてしまった。
そのころ欧米ではがん患者さんにはがんを告げるらしい、と伝わってきた。
告知こそ正しいと考え、後に就職した総合病院では、受け持った肺がんの患者さんに生まれて初めてがん告知をした。
告知直後患者さんは突然に泣き出し、深い悲嘆に落ちていった。冬の夕暮れに訪問したナースが「明かりをつけましょうか?」と尋ねると、「いえ、いいです。いずれ電気のない国へ行くけぇ」と言ったらしい。
がんを告げない時も告げた時も失敗し「いったいどっちが正しいのか」という問いが頭を巡った。
しかし後に問いが間違っていたと気付く。多くの患者さんや家族に会って、決められた正しい答えなんかない。みんな、ひとりひとり。好きな魚や野菜や肉や、麺類や風呂の温度やお酒や、色や音楽がひとりひとり違うように、がんの告知もひとりひとり違う。決めつけてはいけない、押し付けてはいけない、と教えられた。「A-非A」という反対言葉が共にあればこそ、臨床はふくらみを持つ。
このようにコラムは綴られていました。
現代は言葉のみならず政治や行政、教育、あるいはメディアに至るまで反対言葉の世界を避け、画一化の傾向を帯び、向かう方向は正しき一方向ではなくてはならない、という脅迫傾向があるように思えてなりません。
同コラムでさらに2つの詩を紹介しています。
1つ目は、タゴールの「道ができている場所では」の冒頭1行。
道ができている場所では、わたしはわたしの道を見失う。
見失わない為に道があるのでなく、作られた道の中では自分の道は見えなくなり失う。と教えられます。
2つ目は、谷川俊太郎さんの「ケトルドラム奏者」の冒頭4行。
どんなおおきなおとも しずけさをこわすことはできない
どんなおおきなおとも しずけさのなかでなりひびく
大きな音は静けさの中に存在するし、静けさは大きな音の中に存在するのだと気付かされます。
このコラムを読みながら、お互いに相互関係にあるもの。これはまさしく「縁起」だなと感じました。仏教の基本原理である縁起は、簡単に表現すれば・・・
AあればBあり、AなければBなし。A生ずればB生じ、A滅すればB滅す。
であります。
それでは、ふと「いのち」の反対言葉は何になるかと考える。いのちは何に含まれるか?やはり「生死」ではないかと。
生死の中にいのちがあり、いのちの中に生死がある。もちろん縁起の公式にもピタリ。
ということは日常生活の中で意識しづらい「いのち」も本当に全てに存在するのだなと改めて感じました。
草木にも生死があり、石や岩も何れ朽ち果てると考えると死が存在する。死は生の中にあるものだから、石や岩にも生死が存在し、そこには間違いなくいのちが宿ると気付く。
そう考えると、今更ながら私も他の「いのち」によって成り立っていて、他の「いのち」も私を含むのだと感じます。
普段見えない縁起の糸の様なものを意識すると、改めてありがたいなと、しかしごく自然にそう思えました。
普段の何気ないところに、仏教の教えはあるものですね。
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