『昔話の深層』
河合隼雄
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2013/09/25
なぜお経は漢文体のままで、
現代語訳して読まないのか?
このような疑問を持つ方は多いと思います。
私も色々な場面でこんな声を聞きます。
「法事の時にお坊さんが読んでるお経、聞いててもさっぱり分からないよ。」
「お経って聞いてる人が理解できなきゃ意味ないんじゃない?」
etc。
こんな感じですよね?
それでは何故、このご時世に未だ漢文体のままなのか?
私自身も疑問があるので、私なりに考えてみました。
お経を現代語訳しない説明も人によって色々です。
○お坊さんの体たらくではないか。
○そのままの“字”そのものに功徳がある。
○簡単な分かりやすい文章にする事が、本当に読み手の為になるのか?
○訳せば訳す程、情報が劣化していく。
○頭に叩き込む為に、リズムを大切にする必要があるから。
などなど、どれもこれも一理あるなと感じます。
しかし、ここで何が問題なのか?一度整理をしたいと思います。
「そもそもお経は、本当に現代語訳をされていないのか?」という事です。
実はそんな事ないですよね?
本屋に行くと色々なお経の現代語訳は出版され、様々な方が訳されていると思います。
それでは何が問題か?
それは「儀式の時に読まれるお経、つまり読経が漢文体のままでは分からない」という事だと思います。
ここで、私の大好きな経典『法華経』にヒントを求めたいと思います。
『法華経』には「五種法師」という5種類の修行が説かれています。
「受持・読・誦・解説・書写」の5つです。
簡単に説明すると。
受持・・・教えに対して※信仰を持ち、それを保つ事。
読・・・お経を読む事。
誦・・・お経を暗記する。
解説・・・お経の内容を人に説明する事。
書写・・・お経を書き写す事。
と、ざっくりこんな感じです。
この「五種法師」から、あるヒントが見えてきました。
それは、「読・誦」と「解説」は別の修行だという事です。
儀式の時などにお坊さんが漢文体でお経を読む、いわゆる読経は「読・誦の行」と捉えられます。
一方、法事の後などに読んだお経の話や、仏教説話などを話す、いわゆる法話は「解説の行」と捉えます。
実はこの2つの修行は意味合いにも違いがあります。
読経は、お坊さん自身の身体(頭にも)にお経を染み込ませるという事と、仏様への法味を捧げるという意味があります。だから現代語訳する必要はないですよね?リズムに乗りやすく整えられた漢文体の方が頭に刻みやすいですし、仏様へ捧げるお経としても漢文体のまま伝わります。
つまり読経は「仏様と自分との対話」であるという事です。
お経が読める人は一緒に読んだりしますよね?個々が仏様と向き合う時間です。
一方、解説である法話は、聞いている人に分からなければ意味がない為、現代語訳に留まらず、更に時事問題なども絡めながら話をしていると思います。これは漢文体のままでは意味がないですね。
法話は「話し手と聴衆との対話」であると思います。
つまり法事などで「お坊さんのお経って意味不明だなぁ」と感じると思いますが、「今は仏様とお坊さんが対話をしている最中なんだ」と理解して頂ければと思います。
その後、今度は皆様へ「仏様とどんな対話をしたか」「今日読んだお経の意味は?」などなど分かりやすくお話をしてくれると思います。
これが「お経が漢文体のままである理由」の私なりの回答となります。
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